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意味がなくてもスイングする 

上原ひろみ サマーレインの彼方 / 神館和典

2009/10/28 Wed [Edit]

Hiromi01

以前、単行本で出ていたものが、幻冬舎文庫となって発売された。

上原ひろみのライブに帯同したり、レコーディングに参加して多くのインタビューを行った筆者がまとめた「上原ひろみドキュメンタリー」。2008、2009年分は文庫版追記として新たに40ページ分補足してある。
非常に面白く、あっという間に読み終えた。

エピソードの数々に上原ひろみのすごさが伝わってくる。やっぱり子供のときから「表現者」なんだなと改めて感動した。

「努力、根性、気合」が彼女の座右の銘で、このたび30歳を前に6作目をソロ・アルバムで出したのは「けじめ」なのだそうだ。うーん、なんだか長渕剛みたいだけれどww彼女のエピソードを読むとピアノに対してはホントに努力と根性と気合の人なのだなと改めて納得してしまう。もちろん天性の才能がたっぷりあるのは言うまでもないが。

彼女の最近の目標は90歳まで現役でピアノを弾くことだそうだ。
90になってもライブでピアノを弾いていたいのだとか。
ま、ワタシはとてもそこまでは生きていないだろうけどww、それまでにいったい何枚のアルバムを出してくれるのか、すごく楽しみである。
どんどん進化発展してゆく彼女の音楽世界を、同時代に聴いてゆけるのはとてもシアワセなことである。

劒岳 点の記

2009/08/19 Wed [Edit]

すこし前に、映画「劒岳 点の記」を観に行った。なかなかいい映画だった。山登りが好きな人はもちろん、そうでない人も偉大な日本の自然の景観と明治の日本人の逞しさに圧倒されると思う。

この映画で劒岳登山客がまた増えるんだろうな。ワタシももう一回登ってみたいと真剣に思ったww
ただ私が見た映画館は古くて映写画質がイマイチであったのがすこし残念。
それでもラストのタイトルバックは素晴らしい景色で最後まで見入ってしまった。

帰りに原作を読もうとジュンク堂で新田次郎「劒岳 点の記」の文庫本を買った。
原作と映画では細かい設定が少々異なっている。
もちろん、主人公の測量手・柴崎芳太郎や案内人・宇治長次郎など登場人物は実在の人物であり、ほぼノンフィクション風の小説になっている。(新田次郎氏は執筆時に健在だった登場人物の後輩や子供たちや柴崎芳太郎氏の妻・葉津よさんには実際に会って取材をしている。)
ワタシがいままで読んだ新田次郎氏の小説は「孤高の人」くらいかな。氏の小説を読んで山岳部に入った人はかなり多いだろう。
ちなみに、新田次郎氏の長男は「国家の品格」がベストセラーになったエッセイストで数学者の藤原正彦氏である。

劒岳1

明治40年に日本地図を完成させる為、それまで前人未踏であった(はずの)劒岳に初登頂した陸軍参謀本部陸地測量部の測量手とその案内人たちの物語。

もともと明治政府で地図を作る測量事業は内務省の管轄であったが、明治11年に陸軍が強引にこの事業を奪い取って陸軍参謀本部測量部に併合してしまった。しかし、軍人だけでは地図は作れないから、測量手は専門技術職の文官である。日清・日露戦争時は戦地での地図の作成も陸地測量部の任務であったが、文官である測量手が所属する三角科は国内で測量を続けていた。日露戦争後は日本国内の地図を完成させることが急務となっていた。

折も折、当時日本ではじめての「山岳会」なるものが発足し、中部山岳地方の5万分の1の地図を開示するように陸地測量部に求めてきた。それは日本で唯一、未踏の山であった劒岳の登頂を目指す為であった。それまで、日本の山で宗教的に開山された山以外で、前人未踏であった山を初登頂・測量してきたのはすべて陸地測量部であって、民間人が初登頂したという山はなかったのである。陸地測量部が未踏であると言うことは、その地方の山間部の地図はまだ白紙であり等高線も引いていない状態であるということだ。陸地測量部の上層部(つまり陸軍参謀本部)は、なんとしてでも国内の地図を完成させること、そのためには中部山岳地方・未踏の劒岳周辺の測量を完遂させること、もちろん「山岳会」などという民間人団体には決して遅れをとらず、劒岳に誰よりも早く初登頂することを下命する。

そもそも越中劒岳は、かの弘法大師が草鞋三千足を費やしても登れなかったという伝説がある山であり、立山信仰では悪業を重ねたものが死後追い上げられる「地獄の針の山」、登ってはならない「死の山」なのであった。
その困難な劒岳測量事業を託されたのは、「山岳会に勝てるのは彼しかいない」と指名された、測量手になって3年目の陸地測量部三角科第四班・柴崎芳太郎であった。

彼は地元の山岳案内人には、明治35年に立山に測量に入り、二等三角点を設定した先輩に推薦された大山村和田の宇治長次郎を頼んだ。彼こそ、剛力の上に俊敏でありしかも謙虚で従順と言う性格のうえに、山を熟知し山登りの勘所を備えた、劒岳攻略の要となる人物なのであった。

この二人の魅力的な人物を中心として、測量手また案内人助手、人夫などの人間関係や三等三角点設置の準備、選定・設置・測量に加え、劒岳登山路の検討やアタックの物語が進行していく。
そして、ついに艱難辛苦の末、劒岳初登頂を果たすのであったが、その山頂で発見したものは。。。

これはかなり有名な話ので知っている人も多いと思うけど、一応書かないでおきます(あらすじ書くのも疲れてきたので、、、汗)

どちらかと言うと、後から読んだからか、小説のほうが感動的だった。
映画は景観が圧倒的で美しいのだけれど、物語の面白さは小説のほうが堪能できる。
どちらもあわせて鑑賞するのが吉でしょう。

それからいろいろ「劒岳」で検索したら、あるわあるわ、やはり人気の山だけに登山記録のブログやホームページがいっぱいあります。
これらを見ていたら本当にまた登りたくなりました。

ワタシが劒岳に登ったのは、高校2年の夏休みです。
高校では山岳部に所属していたんだけれど、この山岳部はアホばか山岳部で、近所の山に行っては酒飲んだり、タバコ吸ったりしていたのでしたww
まじめに登山したのは、一年の時の大峰山とこの劒岳ぐらいではなかろうか。
当時はテントも黄色い布地でやたらと重かった。荷物は一人45〜50kgぐらいは担いでいた。
登山ルートは
室堂→雷鳥沢→剣御前小舎→劒沢キャンプ
劒沢キャンプ→劒岳頂上
劒沢キャンプ→別山→真砂岳→富士ノ折立→大汝山→雄山→一ノ越→浄土山→室堂
こんな感じだったと思うが、記憶が定かではないww
劒沢キャンプでは風がめちゃくちゃ強く、隣の女子ばかりのパーティのテントが吹っ飛びそうになり、一緒にいったOB連中が必死で助けてやっていた。
劒岳の頂上はガスが出ていてなんも視界がなかったのは良く憶えている。
立山縦走の時は晴れ間が出てきて、黒部ダムが眼下に見えた。この頃はもう足がガクガクでひざが笑っていた。

いろいろ見つけたブログ・HPなど
立山・剣岳登山記2004

剣岳ブログその1

剣岳ブログその2

剣岳ブログその3

映画「劒岳 点の記」公式サイト

なぜせっかく劒岳に登ったのに、この小説をその時に読んでいなかったのかとても不思議だったんだけれど、よく考えてみると、この小説が発表されたのは私たちが劒岳に登った数年後だったのであった(汗)

生物と無生物のあいだ 福岡伸一

2009/07/12 Sun [Edit]

2007年に新書が出てベストセラーになった生物学の本。
ウイルスの発見やDNA構造の解明の歴史をたどって、「生命」とはなにか、「生命の動的平衡状態」というのはどういうことかを、どちらかと言えば文学的表現で平易に判りやすく書いていて、こういう部類の本にしては珍しく数十万部のヒットになった。
はじめて読んだのは1〜2年前だけど、このたびの新型インフルエンザ・ウイルス騒動で思い出してまたぱらぱらと読んでみた。

何でこの本を思い出したかと言うと、ひとつは「ウィルスは無生物」だと言うことがこの本に書かれていてびっくりしたこと(まだ議論の余地はあり確定はしていないが、分子生物学ではほぼ常識になっているらしい)。
自慢じゃないけど、「生物」の知識は皆無なのでウィルスって細菌のもっとちっさい奴ぐらいに思っていたww
もうひとつは、インフルエンザ・ウィルスの新型・季節型を判定するのにPCR検査をするということがよく新聞に載っていたけれど、そのPCRマシンを発明したのが「サーファー科学者」だったと言うエピソードがこの本に書かれていて記憶に残っていたからだ。

PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)マシンと言うのは、ごちゃ混ぜの30億ゲノムDNAの中から判定したい特定部位を数時間で数億倍にまで増幅しそのDNAバンドを示してくれる機械なのだ。このシステムの発明によってDNA分析は時間が飛躍的に短縮された。(先ごろの新聞記事ではPCR検査よりもっと早くDNAを判別できるシステムが開発されたようだが、技術の進歩は早いものだ。)

このPCRの開発によって彼-キャリーマリスは1993年にノーベル化学賞を受賞した。
キャリー・マリス-Wiki

ほかにも、20世紀最大の発見と言われる「DNAの二重らせん構造の解明」についてのエピソードも大変面白い。研究者の発見・発明をめぐる競争、競合、ねたみや嫉妬、データの盗用といったあまりに人間的な側面を知らされる。

結局「生命とは何か」について言えば、「自己複製」するもの、そして「動的平衡」であるもの、という結論です。細胞は常に動的で生まれ変わっているが、一個の生命体としては平衡(均衡)状態である、とうことらしい。
ウィルスも自己複製するが、それは他の細胞に寄生することによってのみ可能である。ウィルス自身は栄養を摂取することも、呼吸も排泄もしない。いっさい代謝をしていない。それはいたって無機的で「生物と無生物」のあいだをたゆたうものである。


ワタシは文系なんで面白く読んだけれど、理系の人からすれば「あまりたいした内容ではない」というような批判も散見する。でも、文章が面白いから本は売れるんでしょう。批判する人はもっと面白い本を出してくれww

福岡伸一氏の最新刊は「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」 というのが単行本で出ています。

金融大崩壊 「アメリカ金融帝国」の終焉 / 水野和夫

2009/02/15 Sun [Edit]

筆者は三菱UFJ証券参与・チーフエコノミスト。この人の前著「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」(2006)を読んでわりと面白かったので今作も新書だし買ってみました。
昨年から大変なことになっている世界金融経済の問題についての理解の一助とするため。

歴史的な流れはわかりやすく面白く読めたが、最後の「日本が生き残る道」の中の提案は首をかしげるものもあった。特に「円高」のほうが良いというのは解せない。確かに輸出立国からの脱却と中小企業も世界に出て行かなくてはならないという主張は判るが、今すぐに転換するのは無理があるし、現在の円高容認は政策的にも失敗だと思う。この辺はいろんな方面からのいろんな意見があるところだろうけど。

本書の結論:16世紀に資本主義が始まって以来の地殻変動が起きていて、サブプライムローン問題はちょうどその中間点。まだこの後20年、30年激動の時代が続く。

第一章 アメリカ発世界金融危機

2008年3月 業界第5位ベアースターンズ 資金繰悪化→J・P・モルガン・チェースによる救済合併+NY連銀も資金援助

2008年7月 政府住宅金融機関 ファニーメイ、フレディマックの危機→米住宅公社支援法成立→公的資金注入

2008年9月15日 リーマン・ショック
アメリカ投資銀行 業界第4位 リーマンブラザーズの倒産→アメリカの危機管理能力に世界が疑問符
2008年9月17日 FRBはNY連銀がAIGに850億ドル融資することを承認。
2008年9月29日 米金融安定化法 下院で否決
     10月3日    〃       下院で可決
     10月10日 ワシントンでG7開催
     10月14日 米政府、主要金融機関9社への公的資金注入を発表

米金融帝国を代表する5大投資銀行がすべてなくなる。
第1位、2位のゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは商業銀行に転換。3位のメリル・リンチはバンカメに買収される。

アメリカの金融危機に対する危機管理能力がないことが明らかになり、世界中の株価が乱高下しながらもついに暴落。

サブプライムローン問題は
リーマン・ショックまでが第一段階
金融の再編が進んでいる今の状態が第二段階
次の第三段階は実体経済への影響が本格化

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彰義隊 / 吉村昭

2009/01/06 Tue [Edit]

最近あまり本を読まなくなってきたのですが、とりあえず読んだ本の記録として本のカテゴリを作りました。

ワタシが敬愛する小説家、2006年に亡くなった吉村昭氏の最後の長編歴史小説が文庫本になって発売されたので読みました。
 
「彰義隊」  初出:朝日新聞連載 平成16・10・19〜平成17・8・20(247回)
氏の文庫本はほとんど読んでいると思う。しかしこれで新しい歴史小説が読めないのかと思うと残念でなりません。

吉村昭氏の小説は、徹底的な現地調査・文献調査、関係者や子孫の取材、郷土史家への取材等を通して歴史的事実を精査し積み重ね、組み立てていくスタイルの記録文学で、第二次大戦時期を扱った戦記小説、江戸時代から明治期を扱った歴史小説が代表的なものになります。
1966年短編小説「星への旅」で太宰治賞を受賞していますが、一方で同年に発表した「戦艦武蔵」がベストセラーになったことから記録文学のスタイルを確立していき、この分野での評価が高くなりました。ご自身では、短編小説が好きで自分が長編を書くなんて思っていなかったと述懐されています。

氏は東京・日暮里の生まれで、子供の頃から上野公園、谷中墓地、寛永寺は遊び場だったそうで、彰義隊にまつわる逸話伝承も親戚や近所の人々から聞かされて育ったといいます。ただ上野戦争は1日で終わった戦いであり、一将兵の話を書いても小説になるほどの物語があるとは思っていなかったそうですが、輪王寺宮が当時東叡山寛永寺、日光東照宮の山主として寛永寺に在ったこと、そして徳川慶喜の助命嘆願に尽力し、その後も反新政府的な動きをしたことから数奇な運命をたどったことを知り、この小説「彰義隊」に輪王寺宮の生涯を書くことにしたのです。

1868年2月12日、鳥羽・伏見の戦いに破れ、江戸城へ逃げ帰った将軍徳川慶喜が、新政府に対する恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居した。新政府軍の進軍や江戸市中の混乱を憂えた旧幕臣らが上野へ集結し広く同志を集めて慶喜を警護し、また徳川家の存続や将軍慶喜の助命などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らを中心に結成されたのが、彰義隊という組織だ。将軍家にとっては恭順に決したからにはこうした反新政府的集団ともとられかねない彰義隊は迷惑ということであっただろうけれど、旧幕臣たちにしてみれば、まだまだ戦力的にも資金的にも優位であったはずの幕府軍がこんなに簡単に敗北を認めてしまうのは到底納得できるものではなかった。
勝海舟と西郷隆盛の交渉で江戸城の無血開城が決定し、寛永寺の慶喜は水戸へ引退謹慎する。入城した新政府側は、江戸の治安維持に当たるとの名目で残っていた上野の彰義隊に解散命令を出すのだが、これを聞き容れない彰義隊側とついに武力衝突となる。

慶喜が寛永寺に蟄居したのは、寛永寺が徳川将軍家の菩提寺となっていると同時に、代々輪王寺宮法親王が一山を管領し、朝廷との縁が深い寺であると考えたからであった。
当時22歳の輪王寺宮は伏見宮邦家親王の第9子として生まれ、後2歳のときに孝明天皇の父仁考天皇の猶子となった宮で、後の明治天皇の叔父にあたる。元治元年(1864年)には輪王寺宮は親王の位の第一等をさずけられ、天台宗の寺の中心となり比叡山、東叡山、日光の三山を管領するようになっていた。

徳川家及び旧幕府側の諸大名は慶喜の謝罪嘆願を朝廷に何とか働きかけようと手を尽くすのだが、まず皇族から将軍家茂に降嫁した和宮に、そしてさらに寛永寺の山主輪王寺宮に働きかけてきた。
輪王寺宮は諸大名からの願書を読み、愛着のある江戸の町が戦火に晒されるのは耐え難く、その願書を容れることを決意し、京へ向けて出立する。しかし新政府軍の進軍は早く、小田原で足止めされる。
東征大総督に任ぜられ駿府城まで進軍してきた有栖川宮熾仁親王が輪王寺宮と対面する。輪王寺宮は有栖川宮に、慶喜が恭順謹慎していることを報告し、朝廷の寛大な処分、さらに江戸武力入城の中止を願い出るのだが、強大な軍事力を背景とした有栖川宮は「なんと愚かしいことを」と切り捨て、憎憎しげに輪王寺宮に対応する。おまけに京に向かう事も許さず、江戸に追い返してしまう。
この有栖川宮は旧幕府に対して個人的な恨みがあったのである。有栖川宮は、実は和宮との婚約が内定していた人物なのである。それが幕府側の強引な要請によって破談させられ、和宮は泣く泣く家茂に降嫁させられることとなった。この心の傷が旧幕府への憎悪となっており、東征大総督という立場で積年の恨みを一挙に晴らそうとしているようだったのである。


あらすじをずっと書いていくときりがないのでこの辺にしますが、ここからがドラマで
上野戦争→彰義隊敗退→輪王寺宮敗走→奥州会津、仙台へ→奥羽越列藩同盟盟主に就任→会津陥落、仙台藩降伏敗退→帰順→京の実家で謹慎→→→
と続いていく。

幕末から明治維新の激動期に、宮家で唯一人新政府に反抗して旧幕府軍についたことで、生涯心の葛藤は大きく、その後の人生にも多大な影響を残してゆくのです。
輪王寺宮のそのときそのときの決断・行動には決して間違ったところはなく、真摯に正しい判断をしている。にもかかわらず、心ならずも朝廷の反対派に回ってしまうと言う、歴史の大きな流れの中での皮肉というのか個人の無力さというのを感じました。

吉村昭資料室
吉村昭-Wikipedia

※有栖川宮別邸が神戸の舞子というところにあり、現在は舞子ビラというホテルになっています。

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